越後の龍より采配を継ぐ漢

words by 軒猿1号

 弊社も新潟県に支店をおき、2009年 NHK大河ドラマ『天地人』放映を祝し、"直江山城守兼続公"に触れておきたい。

常山紀談より。
「直江山城守は大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才智武道兼ねたる兵なり、恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」
才智に富んだ偉丈夫の姿が、その文面から窺い知れる。

幼少時、樋口與六。
長じて謙信公没後、御館の乱にて頭角を顕し、景勝政権擁立に大功。後に上杉家名族の直江が未亡人"お船の方"との婚儀により直江家を継ぎ、名実ともに上杉家執政となる。

 この直江兼続、伊達政宗に絡んだ話や、訴訟における決断にて閻魔大王に使者を送る等、いろいろと逸話も多い。
なかでも、会津征伐引き金の一因ともなる、
「追って急ぎ候あいだ、一遍に申し述べ候。内府さま、または中納言さま、ご下向の由候あいだは、万端ご下向しだいつかまつるべく候。」
(いろいろとありましょうが、家康さま、または秀忠さまが攻め入ってくるのでしょうから、その時すべての決着をつけましょう)
と筆を結んだ「直江状」は、世上に有名ではないだろうか。

 豊臣政権傘下、上杉景勝を主と仰ぎ、兼続の執った領国経営はまことに見事なものである。
時の権力者秀吉をして、「天下の政治を安心して預けられるのは、直江兼続など数人にすぎない」との言は、兼続の政治手腕の高さを如実にあらわしたものであろう。
関ヶ原の役以後、会津120万石から米沢30万石への大幅厳封時の城下整備・町割、それに伴う治水工事。大雨による氾濫著しい松川を大規模な石積みの堤防によって静める。これを領民は「直江石堤」と呼び、深く感謝したともある。
更に防備のため、藩内鉄砲製造にも着手。これは後に、大坂冬の陣鴫野の戦いにおいての大いなる副産物となる。
また、農事の教本「四季農戒書」を執筆し、領内農政の指導に取組む。
この書は、月ごとの農民生活心得を記したものである。

一部(四月期)紹介。
「男は未明より日暮れまで、鍬の先のめり入るほど田をうなうべし。女房娘は三度のめしをこしらえ、頭に赤い手巾をかぶり、田のほとりへ弁当を運ぶべし。赤き衣装の女房を、男どもは見て心いさみ、疲れを忘るべし。日暮れて男が帰らば、娘は湯をとり足を洗い、女房は亭主の足を腹に抱えてなでさするべし。そうすれば男どもは一日の辛苦が治るものである」

 戦国武人でありながら、文化人としても名を馳せる。漢詩・連歌への造詣が深く、江戸初期の儒者藤原惺窩は「近世、文を戦陣の間に好める者は、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続、赤松広通と上杉謙信あるのみ」と兼続の名をあげている。
藩学問所・禅林寺を創設し、日本初となる銅活字本「文選」(世に「直江版」といわれる)を出版。後世に与えた影響は極めて大きい。
兼続の収集書籍の中には、宋版の「漢書」「後漢書」六十冊をはじめ、唐代の医学書といわれる「備急千金方」三十三冊等があり、我が国や朝鮮の古書も集め、現在、米沢の上杉神社・米沢図書館に所蔵され、国宝または重要文化財に指定されているものが多い。

 兼続は、質素倹約家であったが、藩政の有意義な事に多額の私財投じも惜しまなかった。没後の遺品は、武具と書籍のみだったとも伝わっている。

元和五年(1619)享年六十歳 法名:達三全智居士 遺骨は高野山清浄心院に眠る。